結局は先生次第

移転しました。

今の小学校では調べ物学習をさせられない

自分が小学生の頃なんかは、「総合」とかいう時間があって、その時間が調べ物学習の時間であった気がする。環境問題のことなんかを調べて、クラスで発表した記憶がある。めんどくさいって言いながらもなんだかんだで楽しかったと今は思う。自分の調べたものが褒められたり、認められたりするのは、やはり、気分がいいものだった。その調べ物学習がなるなるっていうのは、id:guri_2もおっしゃっているように寂しい気もする。

特に印象に残ったのが、「低学年、中学年、高学年の積み重ねがあって小学生は完成する」というフレーズ。このことを踏まえて、自分の小学校の先生を振り返って考えてみると、実はすごく偉大なんだなぁと改めて思った。

ある先生は、まず国語、日本語の素晴らしさを教えてくれた。毎日絶対文章を書いていたし、その文章に対して感想を書いてもらった。(思い出を美化しているだけかもしれないが・・・)読書もその時は、ひたすらしてた気がする。そして、間違ったことをしたときには、ちゃんと怒ってくれた。

最近思うのだが、勉強への興味という観点から見ると、絶対に先生の影響は大きいと思う。どれだけ先生が熱心に教えてくれるか。どれだけ生徒に対して、すごいと思わせるか。そこが大きいと思う。それだけ尊敬する先生の教えてくれる教科。たとえば、数学であったり、英語であったりというのは絶対に興味を持てるし、またわかろうとする。逆に、あまり尊敬できない先生から、魅力的では内先生から教わる教科というのは、なかなか興味を持って勉強できない。
つまり、小・中・高でどれだけ魅力的な、尊敬できる先生に巡り会えるかで勉強への興味は絶対に変わってくると思う。その点、自分は恵まれているのかなと感じる。高校のときは、わからない問題があったら、先生に聞きに行っていたし、わかるまで丁寧に教えてくれた。大学受験前は、先生が生徒全員に対してプリントを作ってくれたり、添削をやってくれたりと、それはもう先生自身の身を削って生徒に尽くしてくれた。その気持ちを無駄にはできないと、頑張ってもこれた。


時代は変わって、今自分は、大学3年生。これから出会う教授、友人、さまざまな人の影響を受けながら進路を決めて行く段階である。就職というところから考えると、研究室がまずは最初の分岐点。どこの分野に自分が進みたいのか、この時間のあるときに考えて、実際に研究室を巡っていこうと決意した。